“ 死よりも切ない別れ ” PartⅡ2009年08月04日

 先月5日のブログに韓国映画『私の頭の中の消しゴム』のキャッチコピー “死よりも切ない別れである。” という言葉が、特養に入所してしまった妻に対する想いにジャストフィットすることに感じ入ったことを書いたが、そのことについてもう一度考えてみたい。

 親子であれ夫婦であれ友人であれ仲間であれ、必ず“別れ”が訪れる。
 その“別れ”の中で最も決定的な別れは “死” に違いない。  その“死”よりも、なぜ認知症(アルツハイマー)による別れが「切ない」のだろうか?

 まず一つは、“死”による別れについては、人は生死という絶対的な自然現象を理解出来るようになれば、“死による別れ” を怖れながらも、意識の奥底では認知している。だから、死に直面したときは怖れ悲しみ、そしてその切なさに心を痛ませるけれど、時間と共にその想いは薄れていく。 しかし認知症(アルツハイマー)による別れは、予期できない別れであり、“死”よりも覚悟の出来ない別れだ。
 さらに“死”は一瞬にして肉体の存在が無くなってしまうのに対して、認知症の場合は、肉体はかなり長期間実存する。それも、植物人間に陥ってしまった場合の実存と違って、外目には病前とあまり違わない状態で、である。 そして会話についても一応は瞬間的に成立する。しかしその会話が会話として広がっていくことはしない。なぜなら以前のことはほとんど覚えていないし、少し前に話したことさえもすぐに忘れていくのだから…

 私は、なるべく多く面会に行こうと思い一人で面会に行くようにしているのだけれど、妻の病状の今の段階では、私を見て一瞬戸惑う様子を見せるけれど私を忘れてはいない。でも私については、ただ身近な人らしいということだけで、彼女とどういう関係の者かは理解できていないらしいのだ。話し始めても彼女の口から出る言葉は、まだ覚えている孫たちと(家で介護していたとき世話をしてくれていた)息子の嫁のことだけ。嫁や孫たちがどうしてここに来ていないのかを、何回も繰り返し繰り返し聞いてくるだけの会話しか成立しない。だから、早々に帰り支度をしてしまう。 
 それでいて、帰ろうとすると「家に帰れるんだろ(涙)」「家に連れてって(泣)」と懇願する。 それをあるときは無視して、あるときは振り切って帰ってくるときの切なさはなんに例えることもできない。ときには 帰途、別れ際の妻の様子を思い出して涙がこぼれ、運転する車の視界を曇らせてしまうこともある。