◆ “Tomorrow Never Comes”2011年10月05日

  『最後だとわかっていたなら』 (Norma Cornett Marek・作 / 佐川睦・訳 / サンクチュアリ出版・刊) を読んだ。
 アルツハイマーの妻はまだこの世から去ったわけではないけれど、人・トシ相応の記憶や過去も、そしてある意味では現在も失ってしまっている妻を想い、込み上げる胸の内を抑えられないまま、この散文詩を読んだ。

 人は大切な“モノ”を失って初めて、その“モノ”の存在の大きさに気付き後悔するのが常なのかもしれないけれど、妻が “記憶の玉手箱” のほとんど失う病に冒される前に私がこの詩に出会っていたならば、病魔に冒される前の平凡で普通の夫婦生活を過ごしていたときにも、かっての生活とは違った日々があったかもしれないし、また今も、違った自分が存在したかもしれないという思いで一杯である。

 しかし一方で、ひとは「明日は我が身」などと言いつつ、実は「明日は我が身」ということを万が一、いや無限小のコトにしか考えず、その「我が身」が現実になったとき初めて後悔の念にとらわれるのが人の常かもしれない。と考えると、人間とは何と不完全な創造物なのだろう、とも思えてしまう。

★ 24時間テレビ33「ありがとう」2010年08月29日

 日テレの「24時間テレビ・愛は地球を救う」の今年のテーマは『ありがとう~今、あの人に伝えたい~』。
 毎年この番組は視聴して涙せずにはいられなのだが、今年のテーマが『ありがとう~今、あの人に伝えたい~』と知ったとき、私は躊躇なく妻にそう伝えたいと思った。しかしいま、ほとんどのことを認知症出来なくなってしまった妻に伝えることは不可能なのだ。

 きょう日曜日、恒例のごとく妻の面会に特養へ行った。いつも妻がいる広間に行くと、いつもと違って車椅子でぐったりしている。と、介護の職員さんが「奥さんはさっきまでとても機嫌良く仲間の人たちとおしゃべりをしたり、歌を歌ったりしていたので疲れてしまったみたい。」「“グッバイ”という歌を『この歌を歌うと悲しくなるの』って言いながら大きな声で歌っていたんですよ。」とのこと。そして私と面会していても私の名前を思い出せないのに、今日は仲間の人や職員とのおしゃべりの中で私の名前や自分の名前を言っていたという。
 “今更”と嗤われそうだけれど、24時間テレビを見ながら、初めて心から真剣に妻に『ありがとう』と言いたいと思った気持ちが、離れていながらも伝わったのだろうか?と、私は不思議な思いにとらわれた。


唐突だが、考えさせられてしまった (*_*;2009年08月14日

 明日は終戦記念日。
 朝日新聞の小コラム『素粒子』に次のような文章が載った。

 先日、鹿児島知覧を尋ねた。陸軍特別攻撃隊基地があった。

 米空母などへ体当たり攻撃。未来ある人間が武器になった。

 歴史刻む特攻平和会館に隊員の写真。あまりに若く悲しい。

 「今の日本はあなた方が命を捨てて守った日本でしょうか」

 来館者がノートにつづった問い。 今を生きる私たちに重い。

 時代時代、時々の社会状況で、そこに住む人々の状況は変わるのだけれど、これを読んで、妻のアルツハイマーに泣きごとを言っている自分が少し恥ずかしくなった。